大田区立郷土資料館(@東京都大田区)
○概要
昭和54年(1979)11月3日、大田区の文化および学術の発展に寄与することを目的として開館。入場料無料(常設展示)。
コロナ禍前の入館者数は平成28年・2万2900人(開館296日)、平成29年・2万1006人(開館295日)、平成30年2万3015人(304日開館)で、おおむね年間2万人の来館者があるようです(同館年報より)。
体験学習として、「麦わら張り細工」、「麦わらのほたるカゴ」、「麦わらのガラガラ鳴るおもちゃづくり」など江戸時代の大森の特産である「わら細工」にちなんだ講座(麦わら細工の歴史を学び、技術を体験)。そのほか、勾玉づくり、縄文土器づくりなどの考古学の講座があるそうです。
令和3年3月31日時点での収蔵資料点数は5万8758点。
【大田区ホームページ:大田区立郷土博物館 (city.ota.tokyo.jp)】
○常設展示
常設展示室は2階にあり、階段をあがって右手側に縄文~中世の展示(考古学の成果)、左手側に近世~近代、民俗の展示があります。無料でこれだけの展示が見れて、歴史が学べるなんて嬉しい!
展示の見どころは、なんといっても縄文~中世展示の考古資料。今回のリニューアルを受けて、キャプションも更新されたようですし、展示された考古資料の量も膨大です。見学ルートも一応、内側に通史のシマ、外側にさまざまな発掘調査の結果出土した考古資料の展示、というように来館者の関心を想定した展示構成がされています。
ただ、その趣旨を説明したパネルが展示室入って目の前にはありますが、情報量が多くて最初からそのパネルに行き着くとは限らない場合があるのでは。私だけかもしれませんが、最初はどこから見ればよいのか通史を飛ばして、外側の壁ケースと内側の通史のシマを交互に見てしまっていました。ですので、階段あがりきったところの壁面などに掲示してもよいのかなと。見応えが十分するぎるゆえのことかと思います。
個人的には、縄文時代のイヌの全身骨格や古墳時代に出土した人骨からその人物の顔を復元したという模型や太刀など「見応えあるなぁ」と感心。縄文海進についても地図で説明されていて、とてもわかりやすかったです。キャプションパネルも綺麗ですし。
ちなみに、縄文~中世の展示室の入口には非接触のデジタルツール「おおた歴史探検ガイド」が設置されていました。ただ、このデジタルツール、画面に触れることなく関心のある地域やテーマの解説が見れるという仕組みなのですが…。思うようにカーソルが動かずに、逆にストレスで一か所解説を開いただけで諦めました。これなら、タッチパネルであとから消毒してもらった方が格段にストレスフリー。私の操作の仕方がよくなかったのかもしれません・・・。コロナ禍ゆえの博物館の努力がみえる仕掛けでした。
つづいて左側の近世~近代、民俗の部屋は、右側の考古学充実の展示に比べると見劣りがしてしまいますが、1つ1つの内容は充実しています。村の支配の話や大森わら細工、六郷用水など。大森わら細工って、専門の職人の分業によって作られていたんだ、、、結構儲かっていたんだね!勉強になりました!
特に六郷用水のキャプションは熱が入っていて、「これは私のような一般の客にはしんどい文字数のキャプションだな…言葉難しいし…」とタジタジでした。
しかし、展示室は明るくて広いし、地図と合わせて内容がわかりやすく展示されているし、考古学の展示との違いには色々な内部の問題があるのかな、、、と思いながら館をあとにしました。
せっかくなので、ミュージアムグッズを買って帰ろうと購入したのが、「わら細工」の板(紐?)。何かに仕えるかな?いまのところ、大田区来訪記念として引出しにしまっております。いつか活用できる日が来ることを願って。。。
横浜開港資料館(@神奈川県横浜市)
■横浜開港資料館(@神奈川県横浜市)
- 日米和親条約締結(嘉永7年(1854))の地に建つ博物館!
- 企画展では横浜の歴史(=日本の幕末維新史~近代史)に関する第一級の史料が展示される!
- シンプルな展示室に、最新の研究成果が盛り込まれた展示!
○概要
昭和56年(1981)開館。公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団が運営する近世後期~近代史に関する展示をする博物館。入館料は300円。受付員さん対応、閲覧室(文書館機能)まである。展示室は写真不可。
横浜開港資料館が建つ場所は、嘉永7年(1854)にアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーとの間で日米和親条約の交渉、締結が行われた場所。同館の中庭には、条約締結当時からあったとされる「玉楠の木」があります。また、同館には旧英国領事館(旧館)の建物もあるという歴史ある場所に建つ博物館です。
○企画展「七つの海を越えて-開国前後の日本とイギリス-」
日本側の記録だけではなく海外の当事者の史料(当然外国語)なども博捜し、展示されていました。展示室はそれほど広くないし、デジタルの仕掛けがあるわけではありません。にも関わらず、「観て良かったな!」と思えるのは、しっかりと調査・研究をして(それもヨーロッパまで)、その成果を第一級の史料とともに展示しているから成せるものだと感じました。
個人的には、財団運営の指定管理系博物館では、調査・研究活動が軽視されているイメージがありますが、横浜市ふるさと歴史財団の管理する施設は学芸員(研究者)の数も質も充実しているのかなと勝手に想像しています。
なお、展示室は写真不可ですが、出展目録や館報が配布されているの展示室を出たあとも展示の余韻や細部、裏話を楽しめます。
可愛いハンカチと磁石があったので買いました。
また次の企画展行ったときに違う種類を買います。
【読書記録】大澤夏美『ミュージアムグッズのチカラ』(国書刊行会、2021年)メモ
大澤夏美『ミュージアムグッズのチカラ』(国書刊行会、2021年)メモ
【ミュージアムグッズのチカラ|国書刊行会 (kokusho.co.jp)】
・ミュージアムショップはただの売店ではないですし、ミュージアムグッズはただの雑貨ではありません。博物館での思い出を持ち帰るための大切なツールであり、博物館の社会教育施設としての使命を伝える手段でもあります。博物館が映画そのものなら、ミュージアムグッズやショップはそれを総括するエンドロールにあたるのだと考えています。(p4-5)
・確かに私たちの博物館も、収蔵品自体は地味だったり、知名度は高くないかもしれません。ただ、私たちはこれらの収蔵品を「面白い!」と思っています。お手に取った方々がミュージアムグッズを通じて、日常で盛岡の歴史や文化に触れるきっかけになればいいなと思いますね。(p14)
・歴史系の博物館はお堅い場所だというイメージを持たれやすいので、「こんな面白いグッズあるの。じゃ行ってみようかな」という橋渡しになるといいなと思ってます。」(p15)
・私は「テイクアウトできる展示」かなと思います。(p15)
・まずはとにかくオリジナルグッズ。博物館が独自に開発した商品は、「この博物館は何を伝えたいのかな?」という疑問を探るきっかけになります。(p40)
・学校の先生が教材として、歌川広重「東海道五十三次」のグッズを購入されたことがありました。教科書や資料集に出てくる機会が多いそうです。実物を見せるのはなかなか難しいけれども、ポストカードやクリアファイルなどは皆に回すことができるんです。(p43)
・国立歴史民俗資料館の花押、印判子シール(p90)
◎(メモ)博物館の本来業務が誤解されないように、資料の収集・保存・管理、調査・研究、展示、教育普及、個々の資料の歴史的価値などを伝えるツールとしてうまく機能させることを意識しつつ、博物館のことを好きになってもらうキッカケに。この本を読んで、博物館で館独自のミュージアムグッズに注目するようになった。収集する楽しさも学んだ。
シルク博物館(@神奈川県横浜市)
■シルク博物館(神奈川県横浜市)
- 絹をはじめとした繊維について学べる!
- 生態展示をとおして蚕(かいこ)を学ぶ!
- シルク(絹)は医療現場をはじめあらゆる場所で活躍!
昭和34年(1959)3月開館。一般財団法人シルクセンター国際貿易観光会館が運営する絹(生糸)に関する展示を行う博物館。入館料500円。開港当初に生糸貿易などを行った英国の総合商社ジャーディン・マセソン商会横浜支店の跡地に建つ。
さまざまな天然(植物・動物)・化学繊維、さまざまな種類の蚕のまゆ、生糸採取のための道具、生きた蚕(生育時期ごと)などの実物を通して、生活のなかで身近に使用している衣類などの大本の姿と加工の過程が学べる。ネクタイ1本に140個、着物一式9000個のまゆが必要で、実際に相当分のまゆが展示されているのには素直に「そんなに必要なんだ!」と驚いた。
絹を通して、植物、昆虫、歴史(日本史、世界史、服飾史)、美術などさまざまな分野の知見について学べる。コロナ禍でなければ、さまざまな体験学習もあるようで見応えのある館。
HP【シルク博物館の歴史 – 一般財団法人シルクセンター国際貿易観光会館 (silkcenter-kbkk.jp)】
横浜都市発展記念館(@神奈川県横浜市)
■横浜都市発展記念館
- 開港以後の都市横浜の歴史が学べる!
- 拡大する横浜の姿を豊富な地図で学べる!
- HPの充実した地図・絵葉書データベース!
【横浜都市発展記念館 (city.yokohama.jp)】
平成15年(2003)3月15日開館。公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団が運営する博物館。常設展示入館料200円。
現在の横浜市の骨格が形成された昭和戦前期を中心に、「都市形成」、「市民のくらし」、「ヨコハマ文化」の3つの側面から、都市横浜のあゆみを展示する施設(HPより)。
常設展示
横浜の都市としての発展を考えるうえで転機となった、関東大震災の被害、そして震災復興、戦争、戦後復興と大きな歴史の流れに沿って拡大、深化する横浜の歴史を紹介する。特に、横浜の発展を考えるうえでイメージしにくかった、埋立前と埋立後の様子を豊富な地図で紹介してくれているのは勉強になった(ただ個人的に、ボタンを押して埋立地が表示されるデジタルツールはちょっとみにくくて理解はしにくい)。近代横浜のみならず、ミニコーナーとして江戸時代の吉田新田の時代から紹介してくれている。
企画展示
現在、企画展では「スポーツの祭典と横浜」を開催。
横浜におけるスポーツの歴史(主に平沼亮三(横浜市長など)、東龍太郎(東京都知事など)の史料を紹介)、前回東京オリンピック(関わった場所、人、バレー金メダルなど)、今回のオリンピックにあたっての準備(コロナ禍)、に関する展示。
面白い史料としては、東龍太郎さんの日記、前回東京オリンピックの金メダル。特に、東京帝国大学教授や東京都知事を務めたようなエリートである東龍太郎さんの日記が普通の大学ノートに記していたのが意外で感動した。存命の方から借用した写真や展示物がふんだんに展示してあり、見応えがあった。
【読書記録】『思い出の昭南博物館』(中公新書、1982年)
■E・J・H・コーナー『思い出の昭南博物館』(中公新書、1982年)
- 英国植民地時代は「ラッフルス(ラッフルズ)博物館」→日本占領下は「昭南博物館」→現在は「シンガポール国立博物館」。
- 研究者はどんな時代や社会にあっても「史料」や「研究」に誠を尽くし、それらのもとでは敵国人も何もない。
- 博物館活動の根源は「史料」と「研究」であり、普遍的であるべき活動。
・「日本がシンガポールを占領したと聞いて、英人学者らは学者として果たすべきことを果たさず、われ先に本国へ帰還するか収容所入りをした。残された文化財と学問を、占領の混乱と戦争の非常時から守ったのは、日本人科学者たちであった。学者のあるべき姿に対して軍配は当然日本側にあげられるべきである。」(p6)
・「負けた彼らが最後に残していったのは、偉大なる文化遺産と科学研究であった。戦争の勝利が学者としての彼らの姿勢を左右しなかったように、敗戦国日本にあっても、彼らは学問への奉仕者としての姿勢を変えなかった。」(p7)
・「(羽根田博士は)昭南博物館時代の経験を見事にいかして、横須賀に博物館を建てた。博物館の目的は物を展示するだけでなく、研究をし、教育をすることであるという彼の信条が随所にかされた立派な博物館である。」(p10)
・「物を収集し、整理して保存または展示することは博物館の大切な仕事であるが、それより重要なことは、研究をすること、その業績を発表して後世に残すことである。この重要な使命を、昭南博物館は、戦時中であっても片ときも忘れなかった。」(p136)
・「(徳川義親)侯爵と(田中館)教授が自腹をきり、大金をはたいて英国人の一業績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほかならない。戦争の真最中、敵国人の仕事を英語で出版して、いかなる利益があるというのだ。」(p139)
・「占領直後の、政権の交替から生じる混乱を最小限にとどめるため、山下・パーシバル協定は、約百人の英人技師、事務官らを、日本から必要な要員が到着するまでもとの職場にとどまらせ、仕事を続行させた。彼らを指揮した軍属の日本人高官のほとんどは、教育があり英語が話せて、行政経験に富むインテリであった。ところが数ヶ月後、英国人が抑留所に引き揚げ、官公庁の役人が全部日本人で占められるようになると、新しい支配階層が出現した。強い軍人は戦場へゆき、すぐれた行政手腕を持つ者は上層部にはいり、その下に腹の小さい小役人がひしめいていた。必要な人員をそろえ、ポストを埋めなければならないから、教育も資格もない現地に住む日本人が役人として抜擢された。安定した社会ではよき市民たりえたかもしれぬのに、混乱時の無法地帯のなかで、自己の力以上の地位と権力をおもいがけずも手にしたために、それに溺れ、責任を全うできない者が多かった。」(p151)
・「支配者と非日本人のあいだに立つ小役人は、すぐに、自分たちの地位が懐をこやすのに有利であることを知り、一方、非日本人の多くは、賄賂こそ生きのびる唯一の手段であることを悟った。腐敗が根をはるのにたいして時間はかからなかった。博物館もまた、新しい階層の出現とはっけして無縁ではなかった。」(p152)
・「侯爵は南アジアの地域で、ベスト・ドレッサーとして名高かった。軍服に身を包んだ清潔な侯爵の姿はりりしかった。他人にやさしく、同情的で、いつでも喜んで人の相談にのっていた。控え目で、偉ぶったりはけっしてしなかった。侯爵がサルタンと手紙のやりとりをしていることがわかるまで、マラヤの司政長官として侯爵がいかなる任務を負っているか、私たちはまったく知らないでいたほどだ。」(p158)
・「私の心を烈しく打ったのは、勝った日本人科学者の思いやりや寛大さというよりは、負けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受けつがれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗残者は、いまや勝利者である敵性人の心に、大いなる勝利の印を刻みつけた。負けてなお勝つということはこういうことを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下で、いつまでも立ちすくんでいた。」(p181)
・「国家も、政府も、そして民族も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問はけっして滅びない。私はこのことを、シンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのである。」(p181)
・「軽々しく文化を輸入することのおそろしさを身をもって体験した。研究書や書物を翻訳する者は、原作者と同等あるいはそれ以上の知識と情熱を持ち、物理的労力と時間をかけねばならない、それが、私の信条となった。」(p204)
・「「博物館ゆき」という日本語がある。日本人にとっての博物館とは、いまだに不用の物を入れておく倉庫らしい。「お化け屋敷」を見にゆくことと、博物館にゆくことは同じことなのだ。そんなものを護ってどこが偉いのだというのが大方の反応であった。英国の占領政策の第一歩は、病院を建てることであった。自分たちの健康を守るためである。次に博物館を建てた。占領地の自然と文化を熟知し研究することは占領政策を成功させるための不可欠の要素と考えるからである。日本がシンガポールを占領すると、市の中心地に一大料亭街が出来上がった。三味線をかかえた芸者や女将がぞくぞくとのりこんできて、昭南極楽とまで言われるようになった。博物館についての認識は日英にこのように大きな開きがあるのである。」(p206)
八景島シーパラダイス(@横浜市金沢区)
■八景島シーパラダイス(@横浜市金沢区)
三浦半島のレジャー開発にも着手している西武グループの企業が運営する水族館。1993年5月、開業。700種類、12万点の生き物が生活しているそうです。
入館料は時間帯によって違いますが、2800円~3000円。そのほか別途、さまざまな体験プログラムが有料でできます。
水族館は新江ノ島水族館に比べると、水槽も汚れているし、展示数も少ないような気がします。キャプションの配置や導線も個人的には新江ノ島水族館の方がわかりやすく、内容も充実していた気がします。
残念ながら当日は入場制限で利用できませんでしたが、「うみファーム」での「海育」(海+食育の造語)を掲げた取り組みはとても良い学びの機会を提供していると思いました。魚釣りやマリンビオトープ、機会があれば次回またチャレンジしてみようと思いました。