気ままに博物館巡り

訪れた博物館、趣味で見つけた史跡やレトロなもの、古書店で購入した古い文書などについての備忘録。

【読書記録】『思い出の昭南博物館』(中公新書、1982年)

EJH・コーナー『思い出の昭南博物館』(中公新書1982年)

  1. 英国植民地時代は「ラッフルス(ラッフルズ)博物館」→日本占領下は「昭南博物館」→現在は「シンガポール国立博物館」。
  2. 研究者はどんな時代や社会にあっても「史料」や「研究」に誠を尽くし、それらのもとでは敵国人も何もない。
  3. 博物館活動の根源は「史料」と「研究」であり、普遍的であるべき活動。

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情報局編『写真週報』(内閣印刷局、1942年12月刊行)[拙蔵]

・「日本がシンガポールを占領したと聞いて、英人学者らは学者として果たすべきことを果たさず、われ先に本国へ帰還するか収容所入りをした。残された文化財と学問を、占領の混乱と戦争の非常時から守ったのは、日本人科学者たちであった。学者のあるべき姿に対して軍配は当然日本側にあげられるべきである。」(p6)

・「負けた彼らが最後に残していったのは、偉大なる文化遺産と科学研究であった。戦争の勝利が学者としての彼らの姿勢を左右しなかったように、敗戦国日本にあっても、彼らは学問への奉仕者としての姿勢を変えなかった。」(p7)

・「(羽根田博士は)昭南博物館時代の経験を見事にいかして、横須賀に博物館を建てた。博物館の目的は物を展示するだけでなく、研究をし、教育をすることであるという彼の信条が随所にかされた立派な博物館である。」(p10)

・「物を収集し、整理して保存または展示することは博物館の大切な仕事であるが、それより重要なことは、研究をすること、その業績を発表して後世に残すことである。この重要な使命を、昭南博物館は、戦時中であっても片ときも忘れなかった。」(p136)

・「(徳川義親)侯爵と(田中館)教授が自腹をきり、大金をはたいて英国人の一業績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほかならない。戦争の真最中、敵国人の仕事を英語で出版して、いかなる利益があるというのだ。」(p139)

・「占領直後の、政権の交替から生じる混乱を最小限にとどめるため、山下・パーシバル協定は、約百人の英人技師、事務官らを、日本から必要な要員が到着するまでもとの職場にとどまらせ、仕事を続行させた。彼らを指揮した軍属の日本人高官のほとんどは、教育があり英語が話せて、行政経験に富むインテリであった。ところが数ヶ月後、英国人が抑留所に引き揚げ、官公庁の役人が全部日本人で占められるようになると、新しい支配階層が出現した。強い軍人は戦場へゆき、すぐれた行政手腕を持つ者は上層部にはいり、その下に腹の小さい小役人がひしめいていた。必要な人員をそろえ、ポストを埋めなければならないから、教育も資格もない現地に住む日本人が役人として抜擢された。安定した社会ではよき市民たりえたかもしれぬのに、混乱時の無法地帯のなかで、自己の力以上の地位と権力をおもいがけずも手にしたために、それに溺れ、責任を全うできない者が多かった。」(p151)

・「支配者と非日本人のあいだに立つ小役人は、すぐに、自分たちの地位が懐をこやすのに有利であることを知り、一方、非日本人の多くは、賄賂こそ生きのびる唯一の手段であることを悟った。腐敗が根をはるのにたいして時間はかからなかった。博物館もまた、新しい階層の出現とはっけして無縁ではなかった。」(p152)

・「侯爵は南アジアの地域で、ベスト・ドレッサーとして名高かった。軍服に身を包んだ清潔な侯爵の姿はりりしかった。他人にやさしく、同情的で、いつでも喜んで人の相談にのっていた。控え目で、偉ぶったりはけっしてしなかった。侯爵がサルタンと手紙のやりとりをしていることがわかるまで、マラヤの司政長官として侯爵がいかなる任務を負っているか、私たちはまったく知らないでいたほどだ。」(p158)

・「私の心を烈しく打ったのは、勝った日本人科学者の思いやりや寛大さというよりは、負けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受けつがれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗残者は、いまや勝利者である敵性人の心に、大いなる勝利の印を刻みつけた。負けてなお勝つということはこういうことを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下で、いつまでも立ちすくんでいた。」(p181)

・「国家も、政府も、そして民族も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問はけっして滅びない。私はこのことを、シンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのである。」(p181)

 

※以下、訳者石井美樹子氏(執筆時、静岡大学助教授)

・「軽々しく文化を輸入することのおそろしさを身をもって体験した。研究書や書物を翻訳する者は、原作者と同等あるいはそれ以上の知識と情熱を持ち、物理的労力と時間をかけねばならない、それが、私の信条となった。」(p204)

・「「博物館ゆき」という日本語がある。日本人にとっての博物館とは、いまだに不用の物を入れておく倉庫らしい。「お化け屋敷」を見にゆくことと、博物館にゆくことは同じことなのだ。そんなものを護ってどこが偉いのだというのが大方の反応であった。英国の占領政策の第一歩は、病院を建てることであった。自分たちの健康を守るためである。次に博物館を建てた。占領地の自然と文化を熟知し研究することは占領政策を成功させるための不可欠の要素と考えるからである。日本がシンガポールを占領すると、市の中心地に一大料亭街が出来上がった。三味線をかかえた芸者や女将がぞくぞくとのりこんできて、昭南極楽とまで言われるようになった。博物館についての認識は日英にこのように大きな開きがあるのである。」(p206)