大田区立勝海舟記念館(明治時代の勝海舟邸付近)
常設展示内は撮影禁止。シアタールームあり。平展示ケースの間にタッチパネルで史料の閲覧ができる。通路ボード(A1~2くらい?)で最新研究の報告パネル。2階でシアターで映像(ただし専門家ではなく、小説家の話)。観光案内を兼ねた史料閲覧、クイズの電子機器あり。
囚人の護送
■文政8年(1825)11月、囚人の護送
関東向御取締出役
差紙 吉田左五郎
新田郡高林村
名主・組頭中
囚人弐人今暮六ツ時より明入六時迄一昼夜之間、其村方江預候条、番人足拾人召連、今七ツ半時迄無相違木崎宿我等旅宿江可被罷出候、其節此書付持参可被返候、以上
関東向御取締出役
酉 吉田左五郎印
十一月廿六日
新田郡高林村
名主・組頭中
覚
丈七 仁右衛門 左平太 宇右衛門 伊惣治 孫兵衛 平治郎 倉吉
平右衛門 甚五兵衛 才料長蔵
右ハ木崎宿囚人番人足、十一月廿六日夜ゟ七日迄一昼夜勤人足
是ハ月番懸リ
一銭壱貫五百文 囚人三人分
一四貫四百文 拾壱人分
右ハ囚人預リ之節諸入用
外ニ
六拾四文
ろうそく四丁代
〆五貫九百六拾四文
是ハ村わり
梅園村八剣神社(現栃木県佐野市)への旗本家臣の代参
安永3年(1774)9月、旗本本多対馬守の家臣冨沢武右衛門が梅園村の「八剱之宮」(現八剣神社)へ代参。なお、八剣神社は映画「TRICK」の撮影で使用された神社だとか。
差上申請取書之事
一銭壱貫百弐拾四文 御代参入用
村高三百八拾六石弐斗ニ割
高拾石ニ付銭弐拾八文ツヽ
高三石七斗六升余
此高割銭拾文 喜八
高五石弐斗五升余
此高割銭拾五文 源太郎
高三石九斗余
此高割銭拾壱文 友七
高合拾七石六升余
此高割銭四拾八文
右者去年九月私共村方八剱之宮江為御代参冨沢武右衛門様被成御越候節之諸入用、銭壱貫廿四文相懸リ高割合ニ差出候分、此度願出之ヶ条ニ申立ニ付、御代参諸入用之儀ニ御座候間、御割返し被下置、書面之通奉請取候、依之連印差上申候、以上
未八月(※安永4) 百姓 喜八印
同 源太郎印
同 七郎次印
同 友七 印
本多対馬守様
御知行所掛リ
御役所
前書四人之もの高割之銭御書面割合之通被成御渡奉請取相違無御座候、以上
平将門を祀る国王神社(茨城県坂東市)
国王神社を説明する案内板曰く
御祭神は平将門公である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若で戦死したと伝えられる。
その後、長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現れの一つであろう。
本社に秘蔵される将門公の木像は将門公の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
国王神社の入口に
講和発効記念
大東亜戦終戦後民主的神社制度布かる、官有地境■ 昭和二十五年■月 国王神社無償譲與せられ、昭和二十五年■月廿一日登録を了す 昭和廿五年五月平将門史跡として茨城[ 」入選、右録[ ]永久に伝ふ
昭和廿七年五月三十日建之
国王神社の境内には、平将門を主人公とした大河ドラマ「風と雲と虹」(1976年1月4日~12月26日放送)に関する石碑などもありました。
「風と雲と虹」の原作者は、海音寺潮五郎(1901-1977)。主演は加藤剛です。個人的には、鹿島玄明を演じる若き日の草刈正雄があまりにもイケメンだったことと、全編を通じて標準語で話す違和感が印象的な作品でした。
境内のNHK遺産
平将門がこの地に陣歿 したのは、天慶二年如月十四日のことであった。
この猿島野には、風吹き荒び砂塵渦巻き悲運だった武将の最後を弔うが如くであったと言う。爾来千有余年、筆誅により、時に叛臣とせられしも土を愛し、民衆の友となり郷土開発にその生涯を燃やし尽くした彼の魂は、今再び甦りNHKテレビ大河ドラマ「風と雲と虹と」の放映が実現した。これを記念し、宮司飯塚操氏の同窓生有志相謀り、大太鼓を
公の霊前に捧げ以てその徳に応えんとするものである。
昭和五十一年神無月
委嘱誌之
鈴木國男
あえて朝廷に反逆した人物や負のイメージのある人物を取り上げて描く、
来年度の「鎌倉殿の十三人」も源家から政権を簒奪する形となり、承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇(朝廷)と相対した「北条義時」が主人公。
本殿前の燈篭にも
昭和五十一年
放映記念
昭和五十二年
二月十四日
国王神社奉賛会
もちろん大河ドラマで描かれることを史実と考えることは誤った認識を生むことになるので注意が必要ですが、対象となる人物や時代に関心を持つきっかけには最適ですね。
横須賀港の近くにひっそりと -関東大震災の被災者供養塔-
今回は横須賀市汐入町を散策しました。
以下について紹介します。
関東大震災の被災者供養塔
「震災記念閣供養塔入口」という石柱がありました。
「震災」とは、大正12年(1923)9月1日に関東地方で発生した大地震=いわゆる「関東大震災」を指します。死者・行方不明者数が10万人以上という甚大な被害が出ました。
↑横須賀もこんな感じで大きな被害を受けました。
とりわけ横須賀市街地で被害の大きかった場所とされるのが、現在の汐入町(旧横須賀市港町)でした。
井上公夫・蟹江康光・相原延光「関東大震災による横須賀・浦賀地区の土砂災害」(『地理』61-3、2016年)には、汐入の被害について次のようにあります。
海軍基地に面した見晴山の高さ30mの急崖部が長さ440mにわたって地すべり性崩壊を起こし、崩壊土砂量は16万㎥にも達した。崩壊土砂は横須賀駅から海軍基地に向かう県道と海軍工廠内の海軍軍需庫を埋没させ、その間の交通は途絶した。このため、崩壊土砂に巻き込まれて、通行人など50人が死亡・行方不明となった。
ちなみにこの記事には、「横須賀市・葉山町の土砂災害一覧表」なんていうのも掲載されていて、街歩きの参考にもなります。
さっそく、石柱を抜けて公園となっている場所に出て来ました。
目の前に「大震遭難追善地蔵尊」(海軍中将藤原英三郎書)なる碑。
碑の裏面には「大正十二年九月一日午前十一時五十六分大震 後大正十三年四月廿四日建之」とあります。
碑に揮毫した海軍中将藤原英三郎(1872-1949)は、大正12年(1923)当時を含めこの碑が建てられたときに、横須賀海軍工廠長を務めていた方のようです。
プレートは、昭和11年(1936)11月11日付のもので、「横須賀市料理待合二業組合(金20円)」、「横須賀芸妓屋組合(金20円)」など、“花街”横須賀らしい文字も。そのほか、「横須賀市役所課長一同(金10円)なんていうのもありました。
地蔵尊の上には、供養塔が。
供養塔には次のような記載。
大正十二年九月一日ノ関東大震災ハ我国未曾有ノ大惨禍ニシテ一夕ニ十萬ノ精霊ヲ失ヘリ 本市モ亦其厄ヲ免レス随所ニ悲惨事ヲ現出シタリ 而シテ其最甚シキヲ當所トス 茲ニ永ク其精霊ヲ弔ハンカ為ニ齋藤仲蔵氏外数氏ノ発願ヲ承継シ 普ク浄財ヲ募リ一萬四千二百三十餘ノ喜捨ヲ得市費ヲ併セテ本塔ヲ建設シ当市ニ於ケル犠牲者五百十七名ヲ追薦ス
昭和四年九月一日
横須賀市長 小栗盛太郎
関東大震災で亡くなった横須賀市域の住民500名が祀られています。もともとは国道16号沿いにあったそうですが、拡張工事のための現在の場所へ移されたそうです。
慰霊碑には、横須賀市立高等女学校の生徒(14歳~18歳)、地元汐入や逸見の方をはじめ「駆逐艦矢風 佐藤清助さん(29歳)」、「逸見小学校教員 伊藤俊子さん(21歳)」などの名前がみえます。寄留者でしょうか、なかには千葉県や静岡県の被災者の名前も確認できます。
供養塔の裏には、防空壕らしき穴がありました。
おわりに
関東大震災というと、東京の被害状況が有名な気がします。
横須賀でも多くの方が亡くなっているんですね。
そういえば、逸見や浦賀などにも被災者の名前を記した碑が建っていました。石碑に歴史を刻むという行為は、永く後世に歴史を伝えようという強い意志です。とはいえ、形あるものはいずれ滅びるわけでして、蛇足ながらここに記して記憶のバックアップをとっていきたいと思います。
なお、もっと詳細に横須賀市における関東大震災に関する動向を知りたい場合は、こちらのサイトから参考文献にあたると良いと思います。
関東大震災時の横須賀の状況について、下記の観点から知りたい。1.横須賀の被害状況2.日本の海軍を中心... | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp)